『未来省』を語る
坂村 健 東京大学名誉教授
聞き手:編集部
『未来省』の解説を執筆いただいた坂村健 東京大学名誉教授(以下、教授)に、この本から感じたこと考えたことを改めてお伺いした(編集部)。
経済や社会制度の力で気候変動問題を解決する
――キム・スタンリー・ロビンスンの新作です。
冒頭が実に衝撃的。2025年にインドで大熱波が起こり、2週間で2,000万人もの犠牲者を出すというところから物語が始まります。最近日本も含めて世界的に、気候変動により多くの災害が起こっています。日本では地震、季節的には集中豪雨が顕著ですが、世界的には、熱波、台風、干ばつ、海面上昇、生物種の喪失。またそれらを原因とした、貧困、食料危機、健康リスクの増大など、世界中で多くの危機が報じられています。
地球が大きく変わりつつあるということは皆が感じているのですが、そういうときに、この冒頭を読むと、たいへん驚かされるのと同時に、起こる可能性がある未来のように思えてきます。
――小説のタイトルは「未来省」です。
この小説の中では、熱波が起こる少し前の2025年1月に国連に通称「未来省」が設立されます。未曾有の問題に対し、地球社会全体でどう解決していくのかということを、冒頭のシーンから地球に再生の兆しが見えるまでの30年ぐらいにわたる「未来省」の活動を通して描いています。
単に科学的な知見だけで地球温暖化を解決しようとするのには無理があると誰もが思っていることです。そうした中、科学技術、経済、金融、社会制度、政治などを駆使して人間社会全体で対応していくという「未来省」のアプローチはとても現実的であり、本書に説得力を持たせているところです。
――坂村教授はSF小説の読み手としても知られていますが、このようなSF小説は今までありましたか?
私の知る範囲ではこういう小説はあまりなかったように思います。気候変動により地球が壊滅した後のディストピアを舞台にした小説はたくさんありますが、この本は、気候変動問題に真正面から取り組み闘っていく、希望が持てるようになる小説です。
もちろん小説の中では、その闘いにすんなりと勝利できるわけではなく、いろいろな障壁、障害に突き当たります。しかしあらゆる手段を駆使して解決していこうとすることが具体的に克明に描かれています。
――闘いのための手段は、本当にたくさん登場しますね。
まずはジオエンジニアリング(Geoengineering)です。ジオエンジニアリングとは、地球に対して人為的な操作を行う技術のことです。たとえば、地球成層圏に二酸化硫黄を散布して太陽の光を宇宙に反射する反射層を人工的に作る技術に「成層圏エアロゾル注入」があります。小説の中ではインド上空に反射層を作るために何か月にもわたって飛行機で散布を繰り返すシーンが登場します。
また、化石燃料を使ったジェット機や船が使われなくなり、クリーンエネルギーで動く飛行船や帆船が一般的になっていきます。飛行船や帆船はジェットエンジンが登場する前にあった乗り物ですが、それが復活して旅をするシーンが何度も出てきます。
そして、ある意味著者がいちばん強調したいのは、金融政策としての「カーボンコイン」の発行や、社会体制としての民主共同体の実現なのではないかと思います。ここに多くの記述が割かれています。
いずれにせよ、実現可能性のありそうなアイデアが随所に散りばめられているのがこの小説の特徴です。当然フィクションであって、この本に書いてあるとおりのことをやればうまくいくという保証があるわけではありません。まだ検討中の技術や制度、実用化には相当な努力が必要な技術や制度、実現できたとしても社会的に受け入れられるとはかぎらないものなどさまざまです。
しかしさすが著者のキム・スタンリー・ロビンスンは人気のSF作家で、ヒューゴー賞やネビュラ賞などの著名な賞を複数回受賞するほどの実力作家です。地球救済のための道筋をリアルに描き出していると思います。
――確かにこの小説では「カーボンコイン」に力が置かれているようです。
気候変動問題の解決には、経済・金融制度が鍵となるという考えは、私がこの小説に特に共感したポイントです。
炭素税についてはすでに導入している国があります。二酸化炭素を排出する化石燃料や電気の使用量に応じて課せられる税金のことです。アメとムチでいうならば、ムチに相当する政策です。一方、この小説で実現される「カーボンコイン」は、炭素を100年間地中に埋めたり、今まで持っていた化石燃料を使わないでいたりすると与えられるコインです。実際には電子通貨であり、各国の法定通貨との両替もできます。いわばアメに相当する政策です。悪いことをやるとペナルティを与えるのが炭素税なら、良いことをやると利益を与えるのがカーボンコインです。人間が関わってくる社会活動に関する予測は困難ですが、とても興味深い試みです。
いずれにせよ、地球環境問題に現実的に対処しようとすると、科学技術だけでは不十分で、経済や政治分野の政策を絡めていかないかぎり解決できないことは明らかでしょう。
「核」と「日本」が出てこない
――この本を読んで、ぜひ著者に聞いてみたい、気になる点があるとのことです。
大きく二つあります。一つは、本書に登場するさまざまな解決策の中に核融合の技術がまったく出てこない点です。未来のエネルギー源を考えるときに太陽光などの自然エネルギーだけでうまくいくとは思えず、核融合は今後重点的に発展させていかなければならない技術だと思います。
この分野に関しては近年大きな進展を見せています。これはもちろん今の原子力発電所を動かすという話ではありません。核融合は今の原発とはまったく原理が違うものです。しかし作中において核融合はおろか原子力発電にさえほとんど触れられていません。
私はSF小説であれば核融合という夢の技術について触れてほしいと思ってしまいます。今新しい核融合技術も出てきていて、この小説の終わりの2050年代までにブレイクスルーしている可能性も決してゼロではありません。炭素を出さない発電でいちばん効率的なのはやはり核による発電ですから、脱炭素をやろうとすれば、どこかでその話を出す必要があったのではないかと思います。
――もう一つは何ですか?
もう一つは、小説の中で徹底的に出てこないのが日本という国だということです。日本の存在感がまるでありません。作中で日本に関する記述はせいぜい数か所にとどまります。しかも記述とは言えないような、ただ日本と書いてあるだけというような……。
しかしこれは日本を出すと話が面倒になるという事情があるのかもしれません。たとえば作中においてインフラに関わるものは全部国のものにして公社化しようという試みが描かれますが、それは良き社会主義と言われていた時代の日本が国鉄や電電公社などですでに実現していたことです。
環境問題でいえば、一人あたりのエネルギー消費量は、生活水準の比において日本はかなり低く抑えられていると思います。G7でいうとアメリカやカナダの一人あたりのエネルギー消費は日本の2倍以上もあります。生活水準比でいえば、日本は地域的にも年間的にも気温の寒暖差が激しいわりには、他のヨーロッパのG7諸国以上に低エネルギー消費国といえます。
だからこれはあくまで推測ですが、著者は日本のことはわかったうえで、理想の社会構造がかつての日本のモデルに近いものであり、そこでの日本人が、理想とするあるべき姿だったため、逆に日本について書きづらかったという見方もできるかもしれません。理想的な未来を、日本に見出すようなことを書いたら、欧米の多くの読者にはあまり愉快な結果にならないとわかっていたのかもしれません。
歴史の変わり目としての「大熱波」
――この本において何か印象的な側面はありますか?
作中においては、良い人が使う技術は良くて、悪い人が使う技術は悪いという描写になっています。
たとえばブロックチェーンの消費電力は膨大だったり、太陽電池は地球資源を消費してゴミの山を作り出したりするわけですが、そうした話は書かれていません。だから「正義の味方」が使っている技術のマイナス面は書かないし、逆に作中では目の敵にされている石油などの化石燃料のプラス面は書かないというようになっています。
フィクションだから仕方がないと言ってしまえばそれまでですが、ご都合主義的な展開が見受けられるのは確かです。
―― そうなると、2,000万人の犠牲者を出す大熱波というのもさすがに現実ばなれしていますか?
いえ、それについては、別の見方ができると思っています。大熱波で 2,000万人が犠牲になった瞬間が歴史の変わり目で、その瞬間を受け入れないと、このストーリーは続かなくなってしまいます。世界中の人がこのままでは絶対生きていけないということを知ってしまった瞬間です。これを境に世界中の空気が変わってしまうのですね。そういう出来事がないかぎり、利権を奪われる人々が徹底抗戦を始め、作中に出てくるような方策は何も進展しないでしょう。もちろんそういうシーンも出てきて、未来省の人たちはそれに立ち向かい乗り越えていきます。しかし、今の世界情勢ではそういう連中は絶対負けない。だからこそ、そういう連中も最終的に説得されるためには、大熱波という歴史的瞬間が必要だったのです。
―― 確かに、海外での本書のレビューを見ると、「今の支配者層がこんなことに従うはずがない」というコメントもみかけます。
作中において世を変革するためのテロリズムが描かれるのも特徴です。テロを正義にせざるを得ないぐらい切羽詰まっている状況を描写しているともいえます。もちろんテロリズム自体は無辜の人々の命を奪う行為で許されることではないのですが、そもそも倫理観自体が今と断絶している状況だということです。
いろいろな読み方ができるのがこの本の魅力
―― 坂村教授は、DX(デジタル・トランスフォーメーション)に関して多く発言されていて、著書もあります。DXという観点でこの本はどのように見えますか?
DXは、デジタルの力でやり方を変えるということです。その意味で本書は「マルクス主義のDX」が描かれているといえるかもしれません。
作中で新しく作られた「カーボンコイン」はデジタル通貨ですが、さらに既存の資産も、すべてブロックチェーンによってデジタル化されることが描かれています。すべての資産を暗号資産(仮想通貨)にしてしまうというのはある意味で経済、財政に関わる学者の夢です。貨幣の流通のコントロールや追跡ができますから、脱税や裏口座、ブラックマーケットを全部潰せるし、タンス貯金への課税も実現できる。
かつてそういうビジョンをマルクスが描いてソ連はそれを実現しようとしましたが、うまくいきませんでした。その理由の一つは従来の技術では不正をする余地があり、それを働いた連中だけが得するからです。しかし、今の通信やブロックチェーンの技術があればそれを排除できる。今の科学技術を前提にもう一度マルクスが描いた社会を考えてみましょうという話です。
――いろいろな読み方ができる本なのですね。
この本は、記述されている事柄を追うだけでも、近未来の気候変動経済小説として、新たな視点を与えてくれます。これらの分野で今後何が起ころうとしているのか知るための参考書であり、興味のある内容を自分で調べるきっかけを与えてくれる本でもあります。
しかし、さりげなく散りばめられた言葉やエピソードの裏にある意味を理解すると、より一層、物語全体を立体的にとらえられるようになります。その意味では、教養がたっぷりと詰め込まれた小説で、読み手の意識・知識・教養・洞察力に応じていろいろな理解ができるのも本書の魅力だと思います。