読書ガイド
気候変動フィクション『未来省』は、現在から2050 年代ぐらいまでの数十年間にわたる地球を舞台にした近未来小説だ。「未来省」のメンバーたちは、あらゆる手段を駆使して気候変動問題の解決に向けて奮闘する。
実は、小説の中で出てくる手段やそこで実現されていく世界は、すでに現在、検討・議論され、試みられているものが多い。
そこで、本書を読むにあたっての参考となる背景知識を紹介していきたい。
ジオエンジニアリング
本書で実施される重要な戦略の一つがジオエンジニアリング(Geoengineering:地球工学)である。 気候工学(Climate Engineering)ともよばれる。これは地球の気候を人為的に操作するプロセスであり、大きく「太陽放射管理」と「二酸化炭素除去」の方法がある。
太陽放射管理(SRM:Solar Radiation Management)
本書でまず登場するのが「太陽放射管理:Solar Radiation Management」だ。これは地表の温度を下げるために太陽の光と熱の一部を宇宙に反射する技術である。
インドにおいて太陽の光を宇宙に反射させるために、成層圏に二酸化硫黄を散布するシーンが出てくる。これを特に「成層圏エアロゾル注入」(SAI:Stratospheric Aerosol Injection SAI)とよぶ。
大規模な火山噴火が発生すると大量 の硫黄酸化物が成層圏に舞い上がり、地球を一時的に冷却する反射層が作られる。この反射層を人工的に作り出すというのがSAIの基本的なアイデアだ。
1991年のフィリピンのピナツボ火山の噴火では、1~2年の間に地球の温度が約0.5度下がった。本書では、200機の飛行機で7か月間にわたって成層圏に二酸化硫黄を散布する様子が描写されている。ピナツボ火山の噴火と同程度から2倍程度の影響を地球に与える規模だと記述されている。
ほかにも、本書には北極海の海氷が薄くならないように染料をまいて太陽光を反射させる記述がある。これは、SRMのなかでも「Ocean Albedo Change(OAC)」の技術の一つといえるだろう。アルベドとは、太陽光の反射割合を示す値であり、完全反射が1、完全吸収が0になる。海上で太陽光を反射させることによりアルベドの値を上げる取り組みである。
二酸化炭素除去手法(CDR:Carbon Dioxide Removal)
カーボンニュートラルは、二酸化炭素の排出と除去の差し引きをゼロにした実質的に排出量ゼロの状態をいう。二酸化炭素を除去する技術を総称してCDRとよぶ。その中には、空気中の二酸化炭素を直接吸収するDAC(Direct Air Capture)の技術や、火力プラントの排ガスなど高濃度の二酸化炭素を回収し貯蔵するCCS(Carbon dioxide Capture and Storage)の技術がある。両者をあわせてDACCS(Direct Air Carbon Capture and Storage)とよぶ。
本書では、特にDACの技術が普及していく様子が描かれている。
氷河融解の抑止
本書では、氷河が溶け出す速度を遅らせようとするプロジェクトが進んでいく様子が詳しく描かれている。
南極大陸にはムーランとよばれる管状の穴が空いている。これは氷河が解け、水が川となり、流れ込む低地が削られた結果作られる。ムーランは深いものは氷河の下の岩盤まで達し、水が絶えず流れ込むことによって氷河がわずかに浮く。このため岩盤との摩擦が小さくなり、氷河は流れやすくなる(水が潤滑油の役目をする)。すると氷河はより標高の低い下流側へと流れていく。
本書では、ムーランの下から海水を汲み上げ冷やすことにより、氷河をふたたび岩盤に吸着させて氷河が流れ出すスピードを元に戻すというプロジェクトが進められる。膨大なコストが必要とされるものの、長期の実施にわたりその効果が現れたことが描写される。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル:Intergovernmental Panel on Climate Change)は、世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)により1988年に設立された政府間組織である。各国政府の気候変動に関する政策に科学的な基礎知識を提供することを目的としており、世界中の第一線の科学者の協力のもと、定期的に評価報告書(Assessment Report:AR)を作成している。気候変動に関する最も客観性のある報告書といえるだろう。
IPCCではジオエンジニアリングについてどのように扱っているのだろうか。まずAR5(2013~2014年)のFAQ(注1)や統合報告書(注2)では、SRMとCDRのメリットとデメリットが丁寧に解説されている。特にSRMについては、数多くの不確実性・副次効果・リスク・欠点が伴うとし、試験や実施を制約する国際的な制度とメカニズムの課題があるとしている。
そしてAR6(2021~2023年)のWG3(第3作業部会)の報告書では、CDRが気候変動の緩和オプションとして認識されている一方、SRMはそうではないといった記述がみられる(注3)。 CDR技術はまだ開発が始まったばかりで、回収に大量のエネルギーが必要といった大きな課題が残されている。しかし世界中で多くの取り組みが進んでおり、カーボンニュートラル実現の一手法として期待されている。
なお、本書に登場する氷河に関する ジオエンジニアリングは、注4に詳しい。
金融政策
カーボンコイン
カーボンコインは、本書のメインテーマの一つである。炭素税が炭素排出に対するムチだとしたら、カーボンコインはアメに相当する。本書では、炭素を100年間地中に埋めたり、今まで持っていた化石燃料を使わないでいたりすると与えられるデジタル通貨がカーボンコインだとしている。最初は各国中央銀行の誰もが反対するのだが、未来省トップのメアリーの粘り強い説得により実現にこぎつける。
カーボンコインは法定通貨に両替できるし、中央銀行が一定の保証をするので底割れも防いでいる。逆に、カーボンコインの価値が評価されれば、高く両替することもできる。その意味では普通の暗号資産や為替市場の考えと同等だ。
金融政策における一般的な量的緩和(Quantitative Easing)は、中央銀行が市場に大量に資金を供給し、デフレの脱却や景気を刺激することを目的としている。本書では、CQE(炭素量的緩和)政策としてカーボンコインを発行する。炭素の削減という特定の目的を達成するための量的緩和策であり、これにより気候変動影響の軽減対策や技術開発を促進するとしている。
CQEは実在の概念であり、Wikipediaでは非伝統的な金融政策として説明されている(注5)。カーボンコインも、実在するDelton Chen氏の論文に基づいており(注6)、著者のキム・スタンリー・ロビンスンは、この論文からアイデアを得たと言っている(注7)。またChen氏は、「Global Carbon Rewards Initiative」を立ち上げ、その実現に向けた活動をしている(注8)。
さらに本書では、カーボンコインだけでなく、既存の法定通貨がブロックチェーンによるデジタル通貨に置き換えられ、タックスヘイブンや隠し口座などが作れなくなった様子が描かれている。
環境保護
本書は、実在の世界中の環境保護プロジェクトが進んでいく過程が描かれている。本書で取り上げられているプロジェクトを見ていこう。
Yellowstone to Yukon Conservation Initiative(Y2Y)
「生息回廊(Habitat Corridor)」は、Wildlife CorridorやGreen Corridorとよばれることもある。特に日本では、Green Corridorの訳語の「緑の回廊」が使われている。
生息回廊とは、野生生物が生息地間を移動するための経路、回廊のことを指す。具体的には、森林の帯や川沿いの緑地、野生生物の通行を可能にするための特別な地下トンネルや陸橋などである。
気候変動により地球の気温が上昇し、極端な天候が頻発すると、生物は生存に適した新たな場所への移動を余儀なくされることになる。生息回廊があれば生息地間を安全に移動することができ、生物の絶滅のリスクを減らすことができる。気候変動の影響緩和策の一つとなる。
本書では、実在する米イエローストーン国立公園からカナダのユーコン準州までの2,000kmのロッキー山脈でのYellowstone to Yukon Conservation Initiative(Y2Y)(注9)の活動が取り上げられ、Y2Yから世界各地で生息回廊が実現していくことが描かれている。
「ハーフ・アースプロジェクト(Half-Earth Project)」
「ハーフ・アースプロジェクト(Half-Earth Project)」は、地球の半分を自然保護区にするという大胆なプロジェクトだ。提唱したのは、ピュリツァー賞も受賞した生物学者のエドワード・オズボーン・ウィルソン博士。2016年に「Half-earth : Our Planet's Fight for Life」を著している。
本書には直接は登場しないが、アメリカ・カリフォルニア州政府は、2030年までに州の30%を自然保護区にする「30x30 initiative」を実行している(注10)。
「2000ワット社会(2000 Watt Society)」
「2000ワット社会(2000 Watt Society)」(注11)は、1人あたりのエネルギー消費を2050年までに持続的に2000W以内にするというプロジェクトだ。スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)による、一人あたりのエネルギー消費を2000Wに抑えれば、2100年までに産業革命以後の気温上昇を1.5℃から2℃に抑えられるというパリ協定の実現が可能になるという構想に基づく。スイスでは一部地域で実施が始まっているという。
なお 2013年の統計だが一人あたりのエネルギー消費量は、アメリカ9207W、ロシア6780W、日本4753W、スイス4399W、中国2964W、バングラディッシュ286Wという数字がある。
「4パーミル・イニシアチブ」
「4パーミル・イニシアチブ」(注12)は、土壌の表層の炭素量を年間0.4%増加させることで、植物が人間の経済活動によって発生する大気中の二酸化炭素を実質ゼロにするというプロジェクトだ。土壌中の炭素量が増えればその分植物の生育が盛んになり、光合成の量も増え、より多くの二酸化炭素を吸収する。土壌の表層の炭素量を年間0.4%増加させると、二酸化酸炭素の排出と吸収のバランスが取れるという。
2015年パリの国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)で提唱され、日本でも山梨県でそのプロジェクトが進められている。
社会モデル
「未来省」は、世界中の国、業界、企業、機関などのさまざまな組織同士の利害衝突に直面するが、それを乗り越え解決していく様子がリアルに描かれている。そうしたなか、本書では、現在の新自由主義、資本主義による経済・政治モデルでは気候変動問題は解決できないとし代替案を提示している。具体的には、気候変動が持つ体系的な問題、特に貧富の格差を解決する手段として、協同組合モデルや社会民主主義の要素を提示している。
協同組合では民主的に管理され、利益よりも所属するメンバーや環境のニーズが優先される。本書では、実在するスペイン・バスク地方の「モンドラゴン協同組合」(注13)をモデルにしてその形態が世界に広がっていく様子が描かれている。
(注1)IPCC第5次評価報告書(AR5)第1作業部会報告書 よくある質問と回答(FAQ) FAQ 7.3「ジオエンジニアリングは気候変動に対抗できるか?副作用はどうなのか?」(P.33)
(注2)IPCC第5次評価報告書(AR5)統合報告書 Box 3.3「二酸化炭素除去及び太陽放射管理のジオエンジニアリング技術-果たし得る役割、選択肢、リスク及び状況」, IPCC第5次評価報告書(AR5)(P.70)(2013年~2014年)
(注3)IPCC第6次評価報告書(AR6)第3作業部会(WG3)「Mitigation of Climate Change」14.4.5「International Governance of SRM and CDR」, IPCC第6次評価報告書(AR6)(2021年~2023年)(P.1488)
(注5)Wikipedia: Carbon quantitative easing
(注7)Can a 'carbon coin' save the world? It may be put to the test(2022年11月4日)
(注8)Global Carbon Rewards Initiative
(注9)Yellowstone to Yukon Conservation Initiative
(注10)30x30 California
(注11)Wikipedia: 2000-watt society
(注12)「4パーミル・イニシアチブ」とは?日本と世界の取り組みと環境への効果(2022年1月31日)
(注13)モンドラゴン協同組合という奇跡:ワーカーズCOOPが描く資本主義のオルタナティブ(2022年12月12日)